昭和32年12月 | 邨田印刷紙器株式会社 営業部門の一部を分離継承し会社設立 |
---|---|
昭和34年4月 | 現在地に本社工場を設立し操業開始 |
昭和57年8月 | 埼玉県越谷市に東京営業所開設 |
昭和59年9月 | 福岡県田川郡に九州出張所開設 |
平成3年7月 | 埼玉県春日部市に東京工場設立と同時に東京営業所を同所に移転 |
平成7年4月 | 福島県白河市に白河配送センターを開設 |
平成11年6月 | 福島県白河市の白河配送センターを閉鎖 |
平成12年5月 | 東京都台東区元浅草に東京営業所を移転と同時に東京工場を閉鎖 |
平成14年2月 | 福岡県福岡市に九州営業所を開設 |
平成30年10月 | 福岡県田川郡の九州出張所を閉鎖 |
初代社長 村田 鼎(かなえ)は、大正末期から終戦まで東インド方面や満州、中国方面に印刷物の輸出を行ったりして、早くから東南アジア貿易の重要性とその可能性を感じていました。しかしながら、経営していていた貿易会社の倒産や、敗戦といったことで東南アジア貿易での成功という夢が叶うことはありませんでした。
その後、関連会社である邨田印刷紙器株式会社の業容拡大に伴う新会社設立に際し、印刷紙器の製造のみならず、東南アジアとのビジネスも視野に入れるべしとの考えから、社名を東南アジアの「南」そして盛んになるという意味の「興」のニ文字を取って「興南」としました。
また、印刷や紙器という文字が使われず「産業」となったのも、そうした狭い業種にとらわれずに何でも積極的に挑戦してみようという初代社長の気持ちの表れであります。